瀬戸内海 旅の記録② 3日目、4日目 姫島から上蒲刈島へ

●3日目(5月12日(月))

5時にホテル出発。朝食はコンビニ焼きそば。まっすぐ山口県周南市沖にある延縄漁業発祥の地と言われる粭(すくも)島に向かう。途中通過する海岸線はコンビナートだらけであるが、トクヤマなどの工場群だろうか。

粭島には延縄漁発祥の地というモニュメントがあるだけで、活発に漁業をしているようすもなく寂しい。さっと見て、次の目的地周防大島へ向かう。この島出身の民俗学者宮本常一の記念館が主目的だが、開館が9時30分のため、開館するまでの時間を使い、周防大島の先にある沖家室島に寄る。

沖家室島の漁港を見ていたところ、丁度漁から帰ってきた漁船があった。漁師が今日の獲物を港の生け簀に移し替えているが、1回か2回タモをすくっただけで作業は終わりで、大漁とはいえないようだが、ようやく漁師や漁の雰囲気を見ることができた。

9時が近くなってきたので、次の目的地「星野哲郎記念館」に移動する。星野哲郎は周防大島出身の作詞家だ。美空ひばりの「乱れ髪」、北島三郎の「兄弟仁義」、水前寺清子の「365歩のマーチ」などが代表作である。

その記念館を見学すると、彼の作品の中に畠山みどりの「出世街道」があった。わがふるさと稚内が生んだ数少ないスターであるが、改めてこの詩を読むと2番が何とも言えず素晴らしい。好きな女にこういう涙を流させるようになれば、一人前の男と言えるかもしれない。一通りさっと見た後、今日のメインである宮本常一記念館に向かう。といっても、施設は星野哲郎記念館の隣だが。

内容は、宮本常一の生い立ちから業績・各地の風俗写真や収集した民具(農具・漁具など)の展示であるが、昔の船や漁具などは曾祖父が入植の祭使ったようなものだと思うと、感じるところがある。また、昔この島の島民は食べてゆくために移民として世界各国にでていったとのことで、その移民先を記載した表があった。ハワイなどは移民の数が多いが、中にはタイやスマトラなどにたった一人で移民して行った者もいる。生きるためとはいえ、その苦労がしのばれる。移民という形で世界に出てゆかなければ食えなかった時代のことを思うと、それが朝鮮や満州の支配意欲につながっていった原因となったのもうなずけるのである。

11時ごろ宮本常一記念館を立ち、岩国の錦帯橋を見た後、広島県の坂町に向かう。予備校時代同じ寮に住んでいた友人がカキの養殖事業をしているのだ。アポなしであったが、たまたま事務所に居合わせたので、手短に旧交を温める。ほぼ45年ぶりの再会だが、顔を覚えていてくれたのは嬉しい。

漁業と漁村を見て回る旅をしていることを告げると、最近の瀬戸内海の状況を話してくれたが、瀬戸内海はどこの島でも魚が取れんようになったとのこと。原因は海が変わって植物性のプランクトンが減り、それを食べる動物性のプランクトンが減り、そのプランクトンを食べる小魚が減り、それを食べる大型の魚が減るというように、連鎖的に魚が取れない循環になっているとのことだ。トクヤマのプラント群に見られるように、近代産業立地としての瀬戸内海は健在でも、自然の調和のなかで事業を行う水産業にとっては厳しい環境になっているよだ。

次は、呉市の海上自衛隊呉資料館に向かう。資料館に近づくと大きな鉄の塊が見えてきた。入館して分かったのだが、長さ72mにもおよぶ退役した潜水艦をそのまま展示しており、この館は別名”てつのくじら館”とも呼ばれている。

展示内容は、海上自衛隊の歴史から、掃海業務などの活躍の内容のほか、一番面白いのはやはり本物の潜水艦に入れることであるが、潜水艦という閉じ込められた空間で活動する隊員の苦労を思いながら見学する。なかなか経験できない展示物である。

てつのくじら館見学後は、隣接するスーパーで夕食を購入し上蒲刈島の民宿「かまがり」に向かう。時間があれば、ルートの途中にある江田島の海上自衛隊第一術科学教育参考館、村上海賊ミュージアム、浜田省吾ゆかりのベンチや倉橋島の造船歴史館に寄ってみたかったが、時間がないため(一部は休館)、今回は断念して直接宿へ向かう。

この辺の島で一名でも宿泊可能な宿はここしかなかったが、海に面した静かな宿で他に同宿者もなく、1階の広間を独り占めして、海を見ながらゆっくりとお酒と買ってきた食材をいただく。瀬戸内海の海は静かで、潮騒も聞こえない。別世界に居るようだ。

この静かな海を見ながら一献できただけでも、今回来たかいがあったというものである。

鏡のような静かな海を見ながら一献(民宿かまがりからの眺め)

●4日目(5月13日(火))

今日は民宿かまがりに連泊で、比較的ゆっくり周辺を見て回る予定である。

朝はゆっくり準備し、今日のメインの隣の島「豊島」に向かう。豊島にはまだ”家船(えふね)”が何艘か残っている可能性があるとのことである。

”家船”とはまさしく家の船であり、船で暮らしながら漁をできる船のことである。昔義務教育になる前は、子供も含め家族で船内で暮らしながら漁をしたのだ。しかも、この近海のみでなく、魚の取れるところに出かけて行って漁をするので、遠く五島列島や対馬・朝鮮の方まで出かけていったようである。

そんな家船を見られるかと思い、港に行ってみる。漁に出る準備または戻ってきたところという船はなかったが、日向ぼっこをしている老人がいたので聞いてみると、今でも家船そのものはあるが、魚が取れないので漁に出かける人はいないということだ。それにしても夫婦で子供を連れて遠くまで行って漁をして生きてゆく。そんな時代があったのだ。

そんなことを思いながら豊島を一周してみる。島の周囲すべて護岸で道路が整備されており、車で移動するのは快適だが、逆に海岸線が全く残っていないことに気づく。昔子供が磯遊びをしたであろう海岸が絶滅しているのだ。これはこれで寂しいことである。

豊島のつぎは東側の「大崎下島」にある御手洗地区である。今回の瀬戸内海旅行を調べていて改めて分かったのだが、明治に入り、鉄道や自動車が移動手段の主力になるまで、西日本は船による海上交通が主力であり、九州大名の参勤交代は瀬戸内海を船で移動したとのことで、海上の宿場町的なものがいくつもあり、この大崎下島の御手洗地区もそのような場所の一つである。そこで薩摩藩の船宿、七卿落遺跡、茶屋跡などを見学。大久保利通や坂本龍馬も闊歩したであろう古い街並みを歩く。

話は変わるが、私はいつも歴史ある土地を訪れると墓地に行き、古いお墓を確認する。今回もたまたま駐車場のそばに無縁仏となって墓石だけまとめておかれているようなところがあったので見てみると、”寛政””安永”などと年号が書かれた墓石がある。安永(1770年代)の墓石は私が判読できた中ではこれまでで最古である(古い墓石は風化して、年号を判読することができないことがほとんど)。しかし、今回はそれらの墓石の中に”土州”とよめる墓石がある。おそらく当時の土佐からきた人の墓石と思われるが、土佐からこの島にきて亡くなったとすると、四国の太平洋側とも人の交流があったことがわかる。この土州から来た人はどういう人生を歩んだのであろうか。

その後さらに東側の岡村島、西に戻って下蒲刈島の漁港を見て4日目は終了。コンビニもスーパーもないため、やっと探した地元の商店で、イカ刺し、コロッケ、呉冷麺で今夜も海を見ながら一献である。

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