●5日目(5月14日(水))
5時に民宿かまがりを出発し、福山市の鞆の浦に向かう。歴史小説を読むと、何度も登場する浦なのでどういうところか見てみたい。
最初に平安時代の延喜式にも記載があるという古い神社”沼名前(ぬなくま)神社”に寄る。私の田舎である北海道には、室町時代はおろか江戸時代の神社仏閣もないので、それ以前の時代のものに感動しつつ、静かに旅の安全を祈る。
その後、古い街並みを抜けて鞆の浦漁港に移動する。鞆の浦漁港は船が多い。漁をしている雰囲気は見えないが、それなりに漁師がいるのかもしれない。
次に鞆の浦歴史民俗資料館を往訪。この浦を利用した朝鮮通信使の資料などが充実しているほか、特に興味深かったのは、瀬戸内海の潮の流れ(満潮・干潮)と船の動きを表す模型である。鞆の浦は瀬戸内海の中心部にあり、満潮・干潮の中心点にあって、海の山頂のような位置から塩の流れに応じて船を運行する様子が動く模型で再現されている。潮待ちの意味や様子も初めて分かった。
地方の民俗資料館の定番だが、ここにも地元の名士の資料が置かれてあり、鞆の浦は森下仁丹の創業者森下博氏、琴の大家宮城道雄氏の資料などがある。民俗に興味を持ち始めると、こういう博物館は楽しい。
昼前に博物館を終了。今日の宿泊地は弓削島だが、島へ行く船の時間まで大分時間があるのでつなぎの観光地を探したところ、「因島水軍城」という村上水軍ゆかりの城と博物館があることを知る。村上海賊の歴史から武器・船などの展示があり、これもなかなか興味深いものばかりであるが、一通り見学して弓削島への船が出る土生(はぶ)港へ向かう。まずは駐車場を探すと港に隣接しているパーキングタワーが駐車場のようであるが、値段が高い。今から明日の今頃まで駐車すると4千円ぐらいかかるが、他に駐車場もなくやむを得ない。車をとめて、夕方出港の船を待つ間昼食を取るべく店を探すがやはり営業している飲食店は1件もなく、やむなく港の隣にあるファミマでお稲荷さんを買っていただく。
ようやく出航の時間になりニュー魚島丸に乗り弓削島へ。弓削島は、平安時代京都の東寺の塩の荘園だったとのことで、中学校のころから耳にしてはいたが見たことがなかった荘園というものに触れてみようと思い立ち寄ることにしたものである。
昔荘園だった塩田跡は宿から遠くて徒歩では行けず見ることはできなかったが、古い神社や観音堂など歴史的な建造物を見ることができた。
この弓削島は大きい島ではないが、JAのスーパーも立派で魚肉野菜などの生鮮食料品も充実しているのは驚きだ。他の島では考えられないくらい若者が目に付くが、国立弓削商船高専の学生達で、学生数600人、先生やその家族も含めると高専がらみの人口は1000人ぐらいになるようで、そういうこともあって、島が若々しいのだ。
弓削島の宿は「民宿中塚」である。港から7~8分の場所だが、本当に民宿だ。普通の家庭と同じような玄関から入り、普通の家庭のリビングダイニングを通って奥の和室が数室連なった部屋に入る。同宿の人が居ないので貸し切り状態だが、他の宿泊客がいる場合でも、隣の和室との境目はふすまのみという宿である。
この宿は2食付きである。「お酒のメニューにウイスキーはありますか」と聞くと、「ありますけど、お好きなものをスーパーで買ってきて飲んでもいいですよ」ということなので、スーパーでハイボールの缶を買ってきてそれを飲みながら夕食をいただく。夕食は、宿の女主人が直接採ったというひじきや地元で採れた大きなカワハギのお刺身半身、煮つけ半身などだが、これだけ大きなカワハギは東京でいただくとなかなかいい値段だろうと思いながら、瀬戸内海の海の幸にようやくたどり着いた幸せを味わう。
宿の女主人は、旦那さんが東京の飯野ビルに本社のある海運会社の船乗りで、東京の文京区に住んでいたことがあり、私も飯野ビルの隣のビルで働いていたこともあったりして、弓削島で宿の主と東京の話題で盛り上がるのは、民宿ならではだ。
談笑はほどほどにして部屋に戻り、その後、近くの海岸を散歩して今日の一日が終わる。
- 鞆の浦の港
- 因島水軍城(村上海賊の遺産)
- 弓削島・豊島行きの船
- 民宿中塚
- 夕食、ぜいたくなかわはぎ
●6日目(5月15日(木))
朝食はカサゴの塩焼き。客が一人なので焼き立てが提供される。これは旨い。
朝食をとりながら、「今回は荘園を見に来たんですよ」などと話すと、宿の女主人は分厚い郷土資料などを出してきてくれたが、その中には山樵の記載などもあり、この小さな島でも漁師以外にもいろいろな生活があったことがわかる。
8時前に、たったひとりのお客さんを暖かくもてなしてくれるぬくもりのある宿を辞去し、今日の目的地魚島へ向かう。弓削港から魚島行きの船に乗船するときに、逆方向の土生港行きの船に十数人の小学生がにこやかに乗り込んでいたので、港の人に「通学ですか?」と聞くと、「修学旅行です」とのことだ。萩とかに行くらしい。それにしても、楽しいだろうな、友達と修学旅行とは。
さて、魚島である。魚島は、何か特別なものがある島ではないが、町村合併があるまでは、愛媛県でもっとも小さな村だ。それでも古くは瀬戸内海の東西交通の中継地として祭祀施設も存在する古いタイプの漁村ということである。
弓削港から魚島までは約1時間である。魚島に到着してみると、何もないとは思っていたが、本当になにもない。観光センターの建物はあるが、都合により暫く休館と書かれている。荷物を預けるコインロッカーもないので、荷物を背負いながら、西から東まで海岸線を歩き、浜で海をみていると、残飯を海に捨てに来た(民宿かまがりでも残飯は魚が食べるので海に捨てるように言われていた)年配の女性が話しかけてきたので、ひとしきり話をする。
島に子供は一人もいないことや、やはり魚が取れなくなったことを聞く。昔は肥桶を担いで歩いた話や、糞尿を垂れ流す海岸では大きな鯛が取れたなどと笑顔で話す。こんな小さな島で地元のかたと話ができたのも良い思い出だ。
ひとしきり話した後、もう少し集落を見て歩く。斜面には廃屋が張り付いており、その先には海を見下げるように墓地がたくさんある。今100人程度が住むに過ぎないこの島に、ピーク時は1200人住んでいたとのことで、にぎやかだったころに亡くなった人が葬られているのだろうが、この墓を守ってゆく子孫がいる人はどれぐらいいるのだろうか。
お昼は民宿中塚で作ってもらった豆ごはんのおにぎりをいただく。もちろん島にお店はなく、港にお菓子と飲み物の自動販売機があるだけだ。
ようやく1時発の帰りの船便が到着し、土生港へもどる。土生港からは今夜の宿泊地丸亀へ一路向かう。
丸亀には5時過ぎに到着しレンタカーを返却。今回もともかく無事故でレンタカーを返却できてよかった。
あとは6時過ぎに岡山県の津山から来訪する友人と待ち合わせである。6時半ごろ友人が到着したので、ホテルの隣の居酒屋”塩飽の漁師飯 壱”に行くが満席で、少し離れた”塩飽の漁師飯 まや”に落ち着く。刺身と煮魚をいただき、お酒はいも焼酎。最後はホテルの裏手にある”手打ちうどん飯田屋”で讃岐うどん。やはり丸亀ではうどんだろう。