今夜も5時過ぎに一番乗り。奥に寿司竜の古参幹部で最近幸せになったGさんご夫妻とHさん、浅●橋さんの予約席がある。ほかに予約もなくしばらく静かな時間帯が続く。
「ちょうど今週で開店30周年なんですよ。早いもんですね。良いお客さんに恵まれて本当に幸せです。毎日しろあり達が2~3人は来てくれるんで、枯れ木も山の賑わいですよ。あとほかに数名お客様が来てくだされば、結構いっぱいになりますからね。」と珍しくしろありにしみじみ感謝するマスター。
「そうでしたか、ちょうど30年なんですね。お嬢さんがまだ小さかったんで、お店がうまくゆくかずいぶん心配したんじゃないですか?」と係りの者に聞くと
「まだ娘は幼稚園でしたね。M不動産の方とかがよくお見えになったし、証券会社さんから大量の出前も入ったりして、結構忙しくしてました。人も使ってましたからね。でも、その前にお店探すのは大変でした。自分たちの予算で借りられるところがなかなかなくて、ニュー新橋ビルの2階なんかも見ましたよ。でも当時お付き合いがあったお客様からの紹介でこのお店を借りたんですよ」と係りの者。
40歳を前にしての独立だったことになるが、自分の腕一本でよくここまで来たものだと他人事ながら感慨深いものがある。そこで、さらにそこへ至るまでの道のりを改めて聞くと
「15歳で就職した先は、浦和の「正直屋」という総合レストランでした。月給は11000円で寮に住んで賄い付きだったんでまるまる小遣いに使えたんですけど、ほとんどパチンコに消えてましたね。そこで2年ほど修業してから出身地古河のすし屋に転職。数年務めた後競馬をやりたくて上京し、渋谷の料理屋で働いたんですね。」と15歳からパチンコとはその後の人生を暗示させるが、そこまで聞いているときにお客様が来て話が途切れ、古河のすし屋と渋谷の料理屋の詳細およびそこから独立までの道のりの詳細は聞けなかった。次回以降の楽しみとしよう。
※マスターの少年時代のパチンコの話が出たので、当時の貸し玉料金をしらべてみると2円だった(昭和23年1円、1年後の昭和24年に2円、昭和47年に3円、昭和53年に現在の4円となった)。また、パチンコ業界に関するこんな資料も発見した。